2014年11月16日

現実と銭湯

広い湯船でゆったりできる温泉や銭湯など、大浴場が大好きで、暇をみつけてはよく出かける。

表参道にも「清水湯」というキレイな銭湯があります。外国人や近くの高校生・中学生も来て結構な賑わいの銭湯である。

とある休日、湯上りに脱衣所で着替えていると、同じく上がってきたおじさんが、

「んー?」
「あれっ?」
「ん??」

とボヤキながら、私の後ろでモジモジしていた。
手元に持っているキーが、チラッと見え、どうやら私のロッカーのましたがおじさんのロッカーだったようだった。

それにしても、気が弱そうな様子に、ちょっとおじさんが可愛く見えた。

おそらく、気が強くものをはっきりと伝えないとコミュニケーションが取れないと考える人にとっては、
「もっと、はっきり、言ってよ!」
とイラついて怒鳴るか、もしくは気持ち悪がって避けるかも知れない。

僕も小心者で気が弱いタイプなので、彼の気持ちは、なんとなくわかる気がする。

「失礼します。そこのロッカー開けさせてください。」

という、ごく普通のことが言えない。

”そういったら傷つくかなぁ", "迷惑かけるかなぁ”

と、ありそうでありそうも無いようなシチュエーションを、つい、考えてしまう。

坂口恭平さんの「現実脱出論」に、
現実とは広場のようなものだ。その広場は、ある規則によって余分な情報をカットし、大多数で遊べるようにデータが軽量化された空間

としている。
すべてを一般化して、誰にでもわかる規則(プロトコル)でコミュニケーションをとる、それが現実だという。

もし、現実しか居場所がなかったとしたら、きっと、私やボヤキのおじさんにとっては生きていきにくい世界になるだろう。
いろんな選択肢があって、人には見えないことも、聞こえないこともあって、世の中が平衡状態を保っているのだ。

おじさんの一言のつぶやきから、巨大な現実の情報統制力まで考えてしまったわたしは、銭湯を出た。

そして、ひとり居酒屋によってホッピーをがぶ飲みしながら「現実脱出論」を読み終えるのであった。




ラベル:エッセイ
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posted by Kay at 14:03| Comment(0) | エッセイ・詩 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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